自分の信念で突き進む「変わり者」に注目――美術評論家連盟会長と考える「一匹狼」の育て方
韮原祐介の匠たちの育成哲学 第7回
ゲスト:齊藤 泰嘉 氏
(美術評論家連盟会長)
HRD株式会社代表・韮原祐介が、“人を育てる立場”にある、各界のリーダーやトップをゲストに迎え、人材育成と自己成長をテーマに語り合う当連載。今回は美術評論家連盟の会長であり、日本の現代アートの始まりを知る齊藤泰嘉氏と「独自の世界を持つ作家」について本音で語り合う――。【雑誌『サイゾー』にて連載中:2026年5月号より転載】
対談者のご紹介

韮原 祐介(にらはら・ゆうすけ)
HRD株式会社 代表取締役
1983年、千葉県生まれ。慶應義塾大学卒業後、アクセンチュア、ブレインパッドにて戦略策定、組織改革、AI・データ活用などのさまざまなコンサルティングプロジェクトに従事。現在は、HRD株式会社にてパーソナリティ心理学を活用してクライアント企業の人材と組織の課題解決を支援。東京大学非常勤講師、東進デジタルユニバーシティ講師などを歴任。著書に『いちばんやさしい機械学習プロジェクトの教本』(インプレス)、『サイバー攻撃への抗体獲得法』(サイゾー)がある。

齊藤 泰嘉 氏(さいとう・やすよし)
美術評論家連盟会長
1951年、山口県生まれ。慶應義塾大学大学院修了後、北海道立近代美術館、東京都美術館、東京都現代美術館に学芸員として勤務。96年、筑波大学芸術学系助教授に就任し、2005年より同教授、17年に同大学名誉教授。現在、美術評論家連盟会長、常磐大学特任教授。共著に『ロマン派の石版画』(岩崎美術社)、著書に『佐伯祐三』(新潮社)、『佐藤慶太郎伝――東京府美術館を建てた石炭の神様』(石風社)、訳書に『デイヴィッド・ホックニー 僕の視点――芸術そして人生』(美術出版社)がある。

韮原祐介(以下、韮原):今回のゲストの齊藤泰嘉さんは、美術評論家連盟の会長であり、筑波大学の名誉教授でもあります。これまで学芸員や批評家を育て、アーティストやギャラリストとして活躍する教え子もおられます。齊藤さんご自身も、東京都美術館(以下、都美館)や東京都現代美術館(以下、都現美)で学芸員を務め、日本の現代アートの黎明期をよくご存じです。そうした経験を踏まえ、
当時の話から、学芸員や批評家を育てるとはどういうことか、そして今後のアート界・美術館業界がどのように人を育て、社会と関わっていくべきなのかについて話していきたいと思います。
齊藤泰嘉(以下、齊藤):私は山口県の生まれ。父は多摩美術大学出身で、日本画に精進し、院展などへ出品していた齊藤惇です。私が幼い頃、父は「山口にいては画家として遅れてしまう」と再び東京を目指し、家族で千葉県に移りました。小学生の頃は、父に連れられて上野の都美館に通い、横山大観先生などの名前を教わったものです。
韮原:なぜ学芸員を志したのでしょうか?
齊藤:父の影響もありますが、大学で博物館学を学び、そこで博物館法を勉強したことが大きかったですね。博物館法は昭和26年(1951)12月1日に公布されています。その日が私の誕生日だったのです。
韮原:運命だったのかもしれないですね。
齊藤:こうして、慶應義塾大学で学芸員資格を取得。北海道立近代美術館に就職、その後、都美館へ移りました。そこで、収蔵庫を整理していたとき、一体の銅像を見つけました。それが佐藤慶太郎の銅像でした。彼が東京府に100万円(現在の約40億円)を寄付し、大正15(1926)年に都美館が建てられました。その後、都の予算によって建て替えられ、1975年の新館移行後、その存在は次第に忘れられていきます。でも、ここから私の佐藤慶太郎研究が始まりました。
韮原:佐藤慶太郎は福岡県若松出身の石炭商。美術とは無縁の実業家が、なぜ東京に美術の殿堂を築いたのでしょうか?
齊藤:それは、彼がアンドリュー・カーネギーを尊敬していたことにあります。アンドリュー・カーネギーはアメリカの鉄鋼王であり、カーネギーホールの名の由来となった人物です。彼は移民の子として貧しい幼少期を送りましたが、働きながら得たわずかな給金の一部を社会奉仕のために寄付していました。その生き方に感銘を受けた佐藤慶太郎はカーネギーを手本とし、社会福祉や社会奉仕のために働くことを志したのです。

韮原:なるほど。そこから、齊藤さんは都美館で学芸員を務めていた当時、1982年に「今日のイギリス美術」展、1986年に「ヘンリー・ムーア展」を担当されたそうですね。
齊藤:都美館は、日本の現代美術や国際的な現代美術を扱う方針でした。そこで、イギリス人彫刻家ヘンリー・ムーアの史上最大規模の彫刻展示を行う計画を立てました。総重量で100トンに及ぶ彫刻群を並べ、高さ6メートルの《アーチ》を上野公園に設置するというものです。
韮原:この企画を一緒に進めたのが、齊藤さんの恩人でもある、ブリティッシュ・カウンシルの展覧会担当官でキュレーターのイアン・バーカーさんだったそうですね。
齊藤:彼が上野公園を見て「ここでヘンリー・ムーア展をやろう」と決め、《アーチ》を置く場所を検討しました。広場の中心は動物園・都美館周辺ですから自然とそこに置きたいと。ただ、東京国立博物館(以下、東博)の正面景観に関わるため、まず東博にご挨拶に行きました。ところが、東博の管理係長に説明すると、「いかがなものか」と一言……。つまり、「遠慮してほしい」ということです。
韮原:なるほど。上野公園には「お花見通り」があり、皇居から東博へ向かう軸線と重なる線があります。戦前、東博は「帝室博物館」と呼ばれ、御物を見せるために正面から真っすぐ入る構造でした。そこに建造物を置くのは、非常に敏感な問題になったとか。
齊藤:しかし学芸員は、ここで諦めてはいけません。ここからが根性の見せどころです。ブリティッシュ・カウンシルを通じて、英国大使から東博の館長宛てに手紙を書いてもらいました。すると東博も許可してくれたのです。3月下旬の寒い夜、日通、ヘンリー・ムーア財団、ブリティッシュ・カウンシルの担当官、都美館の学芸員が集まり、夜10時から作業を始め、終わったのは朝3時でした。
ロックフェラー家が数十億円の前衛絵画を無償で寄贈
韮原:1980年代には、アメリカの名門一族であるロックフェラー家から、ロックフェラー・コレクションに含まれる油彩画、白髪一雄《赤蟻王》(1964年)を受け継いだそうですね。
齊藤:ロックフェラー家のニューヨークの別荘に日本の現代美術が多数所蔵されていると聞き、学芸員数名で調査に行ったことがあります。見るだけという約束で伺ったのですが、そこで白髪一雄の前衛絵画などに目を奪われました。
韮原:ロックフェラー家がいくらで取得されたかわかりませんが、現在なら2桁億円ぐらいで取引されそうな作品ですよね。
齊藤:私が作品に見入っているうちに、ジョン・D・ロックフェラー3世夫人が散歩から戻られました。「あなたはどこから来たの?」と聞かれたので、「都美館から来ました」と答え、都美館で1983年に開催した「現代美術の動向=1960年代展」の図録を差し上げたところ、「この絵を寄贈します」と言われたのです。
韮原:おおー!
齊藤:アメリカでは、富豪が文化に寄付・寄贈することは珍しくありません。でも、もしかすると、日本の現代美術を〝日本に返す〟気持ちもあったのかもしれません。
韮原:すごい話ですね……。そんな齊藤さんですが、1995年には都現美で「アンソニー・カロ展」を担当されました。なぜ都美館から都現美に移られたのでしょうか?
齊藤:その頃、東京都は、都庁舎の建て替えに千数百億円など都立施設の建築工事が続いていました。そのうち、「江東区方面にも文化施設が必要だ」という流れの中で、都現美の準備室ができ、「誰か行きませんか?」となりました。そこで、私が手を挙げて、準備室学芸員の第1号になりました。美術資料収集基金は75億円でした。
韮原:今の都政や国政は文化芸術の重要性を軽視しているような気がしますが、当時はずいぶん状況が違ったんですね。
齊藤:開館前、収蔵品としてロイ・リキテンスタインの代表作である油彩画《ヘア・リボンの少女》(1965年)を6億円で海外から購入することになったのですが、これは新聞沙汰にもなりました。
韮原:何が問題視されたのでしょうか?
齊藤:東京都の場合、2億円を超える購入案件は都議会の承認が必要なため、議会にかけたのですが、「なぜ、こんな漫画のような絵を6億円で買うのか?」 という疑問が出され、かなり大きく報道される事態となりました。税金を節約するために準備室が行った海外との直接購入契約は難航しましたが、最後は無事に完了し、リキテンスタイン自身が開館直後の東京都現代美術館を訪ねて来てくれました。彼は優しい笑顔の温厚な紳士でした。
韮原:リキテンスタインはもちろん、芸術史に残る傑作を当時多数収蔵した意義は非常に大きいですよね。今も都現美のコレクション展を見に行くと大変立派で驚かされます。

美術批評は若い作家を見いだす機会
齊藤:一方で私は学芸員のかたわら、美術評論家連盟に所属していました。そして、今年1月1日から、美術評論家連盟の会長に就任しました。美術館の仕事は展覧会業務が中心で、自分が自由に書く機会は限られています。ですが、美術批評は美術館の仕事とは違う角度から、若い作家や最新の現場の動きをとらえやすいものです。
韮原:美術館での企画展となると、やはり実績のしっかりした作家でないと取り上げにくいと思うのですが、東京には面白い作家やテーマを取り上げるギャラリーがたくさんありますよね。かつてはどうでしたか?
齊藤:美術館の仕事が終わると銀座に繰り出していました。もちろん、飲みに行くのではなく、画廊を一軒一軒見て回ったのです。ただ、見るだけでは形に残らないので、「美術手帖」(美術出版社)の展評欄を担当し、月1回原稿を書いていました。ほかにも「三彩」(日本美術出版)や共同通信の文化面などで、美術団体展の紹介や批評を書き、NHK『日曜美術館』にも、美術評論家として出演したりしていましたね。
韮原:実は私も最近、初めて美術評論を一本書いてみたんです。中西夏之さんという画家についてで、今年国立国際美術館を皮切りに4つの美術館で回顧展が巡回しています。批評の言語で、非言語表現である絵画作品を扱うことで、作品の理解が深まったり、読んでくれた方から違った見方を教わったり、大変豊かな経験だったと思います。
齊藤:美術評論家は、創造するアーティストと、受け手である鑑賞者をつなぐ役割です。そして、鑑賞者の中にはコレクターもいます。コレクターとアーティストの間をつなぎ、言葉にして社会に開くのが評論やジャーナリズムです。その活性化のためには、美術評論家連盟の中に、コレクターなどとも関係を持てる仕組みがあってもよいと考えています。たとえば賛助会員のような枠を設け、クリティックとコレクター、そして美術館のキュレーターが交流する機会を増やす。これを私は「3C(Critic / Curator / Collector)の会」と呼んでいます。
韮原:アート界でも賛同する方が多いと思います。では、大学ではどのようなご指導をされていましたか?
齊藤:筑波大学では芸術専門学群の中に「芸術支援コース」を設け、芸術を支えることで社会に貢献する役割を担う人材を育てました。そこでアートライティングの授業も行いましたし、今も続いている「高校生アートライター大賞」にも関わってきました。
韮原:教え子の中にはアーティストや研究者、学芸員として活躍をされている方々がいるとうかがいました。
齊藤:私はどちらかというと、周りから変わり者に見られる学生を育ててきました。「誰が何と言おうと、自分はこれをやる」という信念を持つ「一匹狼」のような者たちです。教え子には「Over the Wall」という壁画プロジェクトを続け、世界各地で壁画を描いているミヤザキケンスケ氏や、妖怪研究では若手の第一人者で、現在は群馬大学の准教授である市川寛也氏がいます。
韮原:多彩な顔触れですね。
齊藤:都美館の頃、私たちはこういう人を「第一人者」ではなく「第一人忍者(だいひとりにんじゃ)」と呼んでいました(笑)。第一人者は競争に勝って頂点に立つ人。でも第一人忍者は、周りに誰もいない独自の世界を、ただひとりで走っている人です。勝ち負けの軸ではなく、誰も見ていなくても、自分の信念で突き進む人ですね。
韮原:社会のありかたを見直すべき現代にあって、芸術とそれに携わる人の役割は本当に重要だと思っています。そういう異端的な「第一人忍者」たちと新たな社会づくりに関わっていきたいですね。
掲載元:[人材育成イノベーター]韮原祐介の匠たちの育成哲学(サイゾー 2026年5月号掲載)
古寺雄大|構成・増永彩子|写真
2026年04月28日
